作品に関して感じたことを徒然に・・・
『わたしとわたし ふたりのロッテ』の魅力とは何でしょうか。ストーリーとキャラクターの良さは言うまでもありませんが、私はセル画の美しさにあると感じました。絵柄が好みであった、と言うのはもちろんですが、全編にわたって描画の乱れが少なかった点は、高く評価できるのでは、と思います。
例えば『小公女セーラ』などはすばらしい作品ですが、放送回によっては、主人公セーラ・クルーさんの顔立ちに相当のばらつきがあったのは、残念ながら事実です。これはこれで、作品の個性として評価することはできますが、視聴者として世界観の統一性・連続性という面からは、安定した描画を求めたいところでもあります。
連続長編アニメという作品の性格上、避けられない問題なのかもしれませんが、本作品はこうした問題点を充分クリアしているのではないでしょうか。
MEMO お母さんの魅力
本作品を考察する上で、忘れてはならない登場人物は、ふたりのお母さん、ルイーゼロッテ・ケルナーさんです。知的ですらりとした美人ですが、自分をしっかりと持って颯爽と生きる、働く女性です。
母として、雑誌記者として、大戦後の混乱期を生き抜く強さ。その原動力が、愛娘ロッテさんであることは明らかですが、同時に細やかな優しさや、少女のような繊細な感性も併せ持っていて、とっても素敵です。
彼女を主役に据えての物語も、見てみたいものです。なにしろ、物語の後半では、捉えようによってはお母さんが悲劇のヒロイン、とも言える展開になりますし・・・
ただ、一つだけわからないのは、7年前にお父さんとのすれ違いでおうちを飛び出してしまった時、どうしてロッテさんだけを連れて行ったのか、ということです。あとで経緯を知ったルイーゼさんは、自分が選ばれなかったことに、かなりのショックを受けたのでは・・・
さらに、もし娘をふたりとも連れて離婚していたら、むしろ全てが円満に運んだのではないでしょうか。これならロッテさんとルイーゼさんは一緒に暮らせますし、身軽な単身となったお父さんも、心おきなく作曲活動に打ち込めたのでは・・・
ただし、こうした見方は飽くまでも大人の目線からのものです。お母さんの経済的負担も考慮しなければなりません。いずれにしても、子供は親を選べないのです。親にも親の人生がありますが、その結果として犠牲を強いられるのは、未来ある子どもたちです。
このようにお母さんを中心に考えてみると、現代にも通じる家族・結婚・夫婦といった諸問題が透けて見えてきます。さらには、いじめや横暴な保護者など、教育現場での諸問題もさりげなく取り上げられています。そうなると『わたしとわたし ふたりのロッテ』は、ふたごの大冒険、という枠を越えた、社会派アニメなのかもしれませんね。
MEMO お父さんの存在
お父さんルートヴィッヒ・パルフィー氏についても、考えてみる必要がありそうです。彼は世界的な天才音楽家と称され、社交界にも明るく、一人娘を想う優しい父親というキャラクター設定がなされています。確かに、ロッテさんとルイーゼさんにとっては大好きなお父さんであり、彼自身、物語の最後には真実の愛に目覚めますが、客観的にみると非常に問題の多い人物のように思われます。
作曲活動のために家庭生活を顧みず、離婚したお母さんやロッテさんへの支援すら、行っている形跡がありません。また、芸術家特有の気難しさで周囲に当たり散らし、思い付きでの短絡的な行動も目につきます。
更には、娘のためという大義名分のもとに、ゲルラハ嬢と交際して婚約まで交わしておきながら、自己中心的な愛情表現で結果的に彼女やルイーゼさんを傷付け、挙句の果てにはお母さんとの復縁に走って婚約を解消しようとする始末です。
この辺りの行動からは、離婚という経験から全く何も学んでいない、やや身勝手な人物像が浮かび上がってきます。
そして最も問題なのは、もともと彼の意識の中には、元妻ルイーゼロッテ・ケルナーと愛娘ロッテ・ケルナーのふたりは存在していなかったのでは・・・という事実です。若気の至りでの結婚生活で、自分を理解せずに去って行った妻と娘になど用はない、という姿勢が垣間見えます。現に再婚話を進めていたことからも、それはほぼ明らかです。
この点、離婚後もお父さんの公演に足を運び、会うことのかなわないルイーゼさんのことを想って涙していたお母さんとは、決定的な認識の差があります。加えて、物語のラストで彼の心を動かしたのは、ふたごの命がけの作戦と悲痛な叫びです。逆に言うと、幼い少女たちがそこまでしなければ、この天才音楽家は目が覚めなかったのです。
自分が無名だった苦しい時代を支えてくれた妻への感謝を忘れ、今の成功と名声を謳歌するルートヴィッヒ・パルフィー氏は、少なくとも家庭人としては評価できない、と結論付けるのは、あまりに暴論でしょうか・・・
当然のごとくハッピーエンドとなるストーリーですが、今後思春期を迎えるロッテさんとルイーゼさんが、父親のこうした一面に気付くとき、どんな事態が起こりうるのか、少し心配です。
ですがそこは、お母さんの気質を受け継ぐふたりが、大人の対応をみせることに期待して、パルフィー家の未来を見守ることとしましょう。
このアニメのタイトルは、なぜ『わたしとわたし ふたりのルイーゼ』ではなかったのでしょうか。原作本も『Das doppelte Lottchen』(邦題:ふたりのロッテ)となっていますが、ロッテさんを推す理由とは何なのでしょう。
これは個人的な見解ですが、まだ戦後の混乱期にあった当時のドイツでは、ロッテさんの暮らしぶりの方が一般的で現実味があったから、ではないでしょうか。
働く母と娘のふたり暮らしという設定からは、大戦で父親を亡くした不遇な少女の姿が想像されます。
敗戦国に咲く可憐な少女が、前向きに生きるストーリーと捉えると、経済力のある父親の庇護の下に暮らすルイーゼさんは、ロッテさんに主役の座を譲らざるを得ないでしょう。
もちろん、こうした事情に関わりなくルイーゼさんの魅力も不変ですが・・・
更に興味深いのは、結論としてこの作品の代名詞的キャラクターは、空色のセーラー服に三つ編みを下げたロッテさん(ミュンヘンルイーゼ)だと思われることです。
学校でもおうちでも、そして街中でも、喜怒哀楽の表情が豊かで、大変印象的に映ります。可憐な少女+セーラー服=ヒロインという公式が成り立っているようです。
そして、このセーラー服ロッテの正体はルイーゼさんです。そう考えると、たとえふたりが入れ替わっても、お母さんを支えるしっかり者のロッテが主役、と言う基本設定は揺るがなかった、とも言えるのではないでしょうか。
蒸気機関車、乗り合いバス、タクシーに、写真館、タイプライター、そして物語進行上、重要なアイテムとなる電話機。
時代を感じさせるこうした要素が、1949年当時のドイツ・オーストリア都市部の一般家庭周辺に全て実在したのかどうか、私の知識の及ぶところではありませんが、少なくとも時期的には、連合軍の戦略爆撃の一大目標だったミュンヘンに戦争の傷跡が全く見られない、ということはないと思うのですが・・・
アニメの製作時期は1990年頃と推測され、バブル景気の最終盤と重なっていますが、世界名作劇場シリーズの様な事前の現地取材は行われたのでしょうか。
また、当時世界最大のカメラ先進国だったドイツでのお話なのですから、ライカⅢcなどの35mm版カメラにも、ぜひとも登場してほしかったです・・・
お母さんの職場が雑誌社でしたので、女性カメラマンとしての活躍も期待しましたが、残念ながらそうしたシーンはありませんでした。
こうした点について、戦争の描写に関しては、原作者の意図があるのかも知れません。以下、次のトピックへ・・・
※本文内容からすれば、ランカスター重爆撃機を掲載すべき所ですが、適切な画像が無かったため、スピットファイア戦闘機となっています。作者のエーリッヒ・ケストナーさん(1899-1974)は、ドイツのドレスデン市出身です。同市は第二次大戦末期の1945年2月、英国空軍爆撃機集団の空襲を受けて一夜で壊滅し、悲しい名前を歴史に刻んでしまいました。この出来事が、彼の作品に影響を与えたであろうことは、想像に難くありません。
また、ワイマール共和制のもとで人気児童文学作家として評価された後、第三帝国下では長く執筆活動を禁じられ、戦後にようやく発表されたのが本作品であった、という事実も重要です。
作中におけるふたりの少女の願いに、作者自身の平和への思いが託されていた、と考えると、敢えてお話の中に戦争を感じさせる要素を入れなかったのでは、とも考えられます。全ては推測の域を出ませんが・・・
※この方はルイーゼロッテさんではありません。更に、原作者ケストナーさんを生涯身近で支えた実在の女性の名は、ルイーゼロッテといいました・・・
原作本『Das doppelte Lottchen』の根底には、彼女に対するケストナーさんの想いも流れているに違いありません。
そう聞くと、この作品が一層素敵なものに思えてきませんか。
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