ダンケルクの奇跡
アメリア先生にセーラさん、平和主義者の二人は、まさか院長先生が実の妹を攻撃してくることはあるまい、と思っていたので、対応が遅れた。なだれ込んでくるジェームスの戦車軍団の前に、退却を余儀なくされる。
臨時の前線指揮所にいたアメリア先生は、苦手な軍用仔犬に襲われて池に転落して腰を打ち負傷。急遽セーラさんとベッキーさんが退却作戦の矢面に立つことになった。
「お、お嬢様、もうここはダメですわ。撤退しましょう」
「ええ、でもまだ味方が大勢残っているわ。一人でも多く助けなければ…」
「で、でも、もう、すぐそこまでジェームスさんたちが来てますですぅ」
メイドの習慣で、いまだに敵将をさん付けで呼ぶベッキーさんの言葉に、ジェームスの怒鳴り声が重なる。
「ベッキー、さっさと出てきて働くんだ!セーラ、お前は市場へ買出しだ!」
Ⅰ号指揮戦車のハッチから身を乗り出し、怒鳴り散らすジェームス。戦車兵の制服がはちきれそうで、全く似合っていない。可笑しさがこみ上げてくるが、さすがに今は笑える状況にはなかった。既にデュファルジュ先生のフランス軍は総崩れとなり、アーメンガードさんの大陸派遣軍共々、海岸線に追い詰められてしまったのだ。
「いやあ、ゆうべはセーラたちから“借りた”毛布のおかげでよく眠れたな。これが終わったら、そうだな、セーラには手始めに雨の中で石炭運びでもさせるとするか…」
圧倒的優勢に気も緩み、場違いなことを考えながらジェームスは総攻撃命令を出そうとした。この自分の一声で、戦いの勝利が決まる。正直、姉妹対決の行方など、どうでもよかったが、安定した職場の確保のためには致し方あるまい。悪く思うなよ、お嬢さん方。
「あんた、ちょっと待っとくれよ!」
愛妻モーリーのいらついた声が、浮つくジェームスを現実へと引き戻す。常に欲求不満のモーリーが、航空機だけでアメリア派を叩く、と騒ぎ始めたのだ。
「お、おい、まあ待て。いくらお前でもそりゃ無理だ。ここは俺の戦車師団と自動車化歩兵に任せておけって」
一度言い出すと手が付けられない妻の性(さが)を知るだけに、必死になだめにかかる。しかし時すでに遅し。
「黙ってておくれよ。もう閣下にはお許しをもらってんだからね!邪魔しないでおくれ!」
…な、なんということだ!ここまで来て、最後の詰めで素人にしゃしゃり出てこられるとは。ミンチン院長は戦術理論など無きに等しく、二言目には経費の削減ばかりを繰り返す凡人だ。凡人ならそれらしく、プロに任せて最後まで黙っておればいいものを…!
「さぁ~ってと!撤退しようたってそうはいかないよ、院長先生からは、きつ~く仕置きをするように言われてるんだからね。スツーカの威力、とくと味わうがいい!ふんっ」
完全におかしなモードに入った愛妻の背中を見て、ジェームスはセーラいじめが少し先延ばしになったことを悟った。
そしてこの院長軍の混乱を、セーラさんは見逃さなかった。卓越した戦術眼で、即時反転攻勢に出る。才能のある者は、どんな分野でも一流の力を発揮できるものなのだ。それこそが、他人のひがみの原因ともなるのだが…
セーラさんが陣頭指揮する重装甲のマチルダ歩兵戦車が、院長側のⅡ号戦車隊を蹴散らし、アメリア派の多くは無事に後方へと逃れることができたのであった。しかし…
「ああ、なんてこと…」
後方司令部では、皆うなだれていた。敗北の辛さよりも、更なる悲しみが部屋を覆っていた。混乱のさなか、敬愛するデュファルジュ先生が院長軍に捕らえられてしまったのである。
「私がもっとしっかりしていれば…先生、どうかご無事で…」
涙をこらえ、アメリア先生の腰をマッサージしつつ、セーラさんの心は悲しみに沈んでいた。しかし、それを表に出すような彼女ではない。いまや、全軍の期待が彼女の、そのか細い肩にかかっていたからである。アメリア先生の声に賛同して集まっては見たものの、一般生徒たちには院長軍を相手に戦うのは荷が重すぎる。結局、一番立場の低かったセーラさんが、実質的な指揮官とならざるを得なかったのだ。見切り発車したアメリア先生にとって、それは唯一正しい判断と言えた…
努めて明るく振舞うセーラさんではあったが、さすがに打つ手はなかった。ジェームス・モーリー夫妻の不和に乗じて撤退作戦は成功させたものの、遂に辺境地域に閉じ込められてしまったのだ。一般生徒たちからの『ダンケルクの奇跡』という賞賛の声も、いまのセーラさんには響かなかった。もとより、自分の功をひけらかすようなことなど、するはずもなかったが。
「お嬢様・・・重装備は全てなくなってしまいましたですね」
ため息混じりのベッキーさんの言葉が、現実を容赦なく突きつけてくる。事実、マチルダ歩兵戦車やハリケーン戦闘機などは、置き去りにせざるを得なかった。いまここで、院長先生の攻撃を受ければひとたまりもないだろう。そうなれば、自分もベッキーも、またメイドの日々へ逆戻りだ。いや、もっとひどい目にあわされるかもしれない。そして何より、アメリア先生は・・・そんな暗い気持ちを振り払うように、あえてセーラさんは朗らかに言った。
「ええ、でもピーターがいるわ」
「ええ?うっそぉ…」
思わぬ言葉に赤面し、激しく動揺するピーター君。たまたま学院に補給物資を届けに来ていて、そのまま参戦することになってしまった彼。アメリア派の誰もが、自由を愛するが故に協力を惜しまないその存在を、とても頼もしく思っていた。が、彼がここに居続ける本当の理由を知る者は、まだいない。
そんなピーター君は、すっと表情を引き締めると口を開いた。
「お嬢様、デュファルジュ先生を助けに行きましょう!俺のスピットファイヤ戦闘機なら、学院のメッサーシュミットなんかには負けませんよ」
力強い彼の言葉に、思わず大きく頷くセーラさん…そう、デュファルジュ先生をお救いすること、それが今の私たちにとっての希望・・・
「セーラ、それはいけないわ」
がしかし、ピーター君に賛同の意を示そうとしたセーラさんを、優しい声がやんわりと遮った。アーメンガードさんである。
「アーメンガード、どうして…?」
予想もしなかった親友兼作戦参謀の発言に、言葉を失うセーラさん。そんな友に、アーメンガードさんは穏やかに続けた。
「違うの、セーラ。私もデュファルジュ先生を助けたいわ。そしてピーターなら それができる。でも、もしうまくいかなくて彼の戦闘機隊まで失うことになったら、私たちはどうすればいいの」
はっとするセーラさん。…そう、そうだわ、今はみんなのことを考えなくてはならない。自分だけの気持ちで動いてはダメ…自らの過ちを素直に認め、すぐに他人の立場になって物事を捉えられるのもまた、セーラさんの美徳である。
「ごめんなさい、その通りね。ありがとう、アーメンガード。やっぱりあなたって、本当に素晴らしいお友達だわ」
しかし納得のいかないピーター君は、なおも食い下がる。
「なぜです?きっとお役に立ってみせます。やらせてください!」
「いいえ、ピーター、学院のメッサーシュミットは航続力がないわ。護衛なしでやってくるハインケルやドルニエ、ユンカースを迎え撃つのがあなたの役目よ。それまではこらえて」
はやるピータ君に理詰めで答えるアーメンガードさん。彼女は、お父さんが次々送り付けてくる書籍を読むうち、軍事関係に詳しくなっていたのだ。いまや、学院側の兵器の主要諸元は全て、彼女の頭の中にあった。もちろん、生徒のことなど頭になかった院長は、その事実を知るはずもない・・・