世界名作劇場 ペリーヌ物語MINIサイト:二人の悲しみ

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このページでは、主に『ペリーヌ物語』と『小公女セーラ』を、比較・考察しています。

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ペリーヌさんとセーラさん。大きな苦難に立ち向かう、二人の少女。その悲しみの内容を比べてみましょう・・・


長い冬の先には、やがて春の訪れが…
ペリーヌさんは、場面の変化によって、様々な危険に直面します。母娘だけの二人旅、という時点で既に危険極まりないのですが、その道中次々と、行く手に障壁が立ちはだかります。同業写真屋の妨害・悪天候・軍隊・警察・狼の群れ・悪路・急峻な山道・不慮の事故・怪我・そして病気…数え挙げればきりがないほどです。大自然の猛威から、人間の悪意まで、容赦がありません。もちろん、これらの障害と共に、行きずりの人々の厚意も多々存在し、ペリーヌ親子の旅は続きます。

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しかし、その旅も、母マリさんの客死によって移動手段を失い、単独行となったペリーヌさんも生命の危機を迎えて、最大のピンチに陥ります。ここは別途記述の通り、バロン君たちの活躍で最終的に切り抜けますが、目的地マロクールに到着後も、直ちに祖父との邂逅とはゆかず、薄給の工員として郊外の狩猟小屋での自炊生活となり、やはり苦難は続きます。

このように、彼女に降りかかる苦難・悲しみは実に多岐にわたりますが、なぜか『ペリーヌ物語』には、『小公女セーラ』のようなどこまでも悲惨なお話、という印象はあまり感じられません。一体、それはどうしてなのでしょうか。

ペリーヌさんの悲しみはその旅の途上、常に彼女の傍にあり、ことあるごとに心をえぐりました。その内容を見てみると、彼女の周辺状況の変化によって、以下のような要因が挙げられます。

◆両親の相次ぐ死

愛する人との別れ。異郷の空の下、衝撃的な悲しみを、ペリーヌさんはわずか5ヶ月ほどの間に2度経験します。そして欧州大陸公路にひとり残された彼女の心細さは、察するに余りあります。涙が涸れるまで泣き、健気にまた新たな一歩を踏み出すペリーヌさんですが、その悲しみが癒されることは決してないでしょう。

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◆パリカールとの別れ

ペリーヌさんにとって、ロバのパリカールは長旅を共にしてきた特別な存在です。賢いパリカールも、それを理解しています。家族同様であった彼との別れ。しかも自分たちの生活のため、泣く泣く手放すのですから、心の痛まぬはずがありません。別れを嘆くパリカールの鳴き声は、いつまでもペリーヌさんの耳から離れず、彼女を一層の悲しみの淵へと追いやるのでした

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◆自分に対する祖父の真意

ペリーヌさんが、自分の全存在をかけてたどり着いた祖父の元。しかし、彼の口から語られる、母や自分に対する容赦のない言葉の数々が、彼女の心を引き裂きます。愛する人からの愛を得られぬ悲しみが、ペリーヌさんを締め付けるのでした

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◆工場関係者の悪意

自らの意思に関わりなく、製糸工場をめぐる大人の事情に巻き込まれてゆくペリーヌさん。祖父の失脚を狙う工場長やテオドール氏の露骨な悪意に加え、人を信じず遠ざける祖父の様子までをも知ることになり、彼女の悲しみの色は濃くなってゆくばかりです

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◆真実を告げられぬ悲しみ

孫ではなく、秘書として祖父の信頼を得たペリーヌさん。求める本当の幸せまであと少しですが、それをつかもうとすれば、父エドモン氏の死を告げねばなりません。それが祖父にもたらすであろう悲しみの大きさを思うと、彼女の心は千々に乱れるのでした

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このように、ペリーヌさんを苛む悲しみは、どこまでもついてまわります。にもかかわらず、作品全体に過度の悲壮感が感じられない理由。1つ目は、

ペリーヌさんには明確な目的地が存在したから

でしょう。ペリーヌさんは終始、”祖父と幸せに暮らす”という願いを持っており、それを支えに長い旅路を越えて来ました。また、マロクールでのやや危なっかしい一人暮らしも、むしろそれを楽しんでいる様子すら、見受けられました。やはりそれも、彼女が持ち合わせた明るい性格と共に、「遂に祖父に手の届く所まで来ることができた」という思いが根底にあったからでしょう。強い思いは、時として人をよりたくましく成長させる、という好例とも言えるのではないでしょうか。

ペリーヌさんを包み込む闇は深く絡み合っていましたが、そこには常に、一縷の希望もありました。前半長旅編では、マロクールに着くことさえできれば・・・という思いが支えとなり、後半のマロクール編では、苦悩の中でも、祖父の身近で自分を知ってもらう努力をする機会があったのです。これらが、必ずしも彼女の苦しみを完全に和らげたわけではありませんが、少なくとも全くの絶望的状況よりは、いくらかでもましであった、とは言えるでしょう。

そして、幸せな結末へと向かうペリーヌさんの大逆転劇は、第34話「忘れられない一日」~第49話「幸せの涙が流れるとき」まで、16話分(作中時間で2ヶ月半)もの時間を割いて丁寧に描かれています。もちろんこの間には、悲しみや苦しみも存在しますが、ペリーヌさんが臨時通訳から実の孫へと、一歩づつ、しかし着実に祖父の心へと近づいてゆくプロセスは、視聴者に前向きな印象を与えているのです。

『ペリーヌ物語』で悲惨さが前面に出ない2つ目の理由。それは、

ペリーヌさんには選択の余地があったから

でしょう。物語前半、長旅における苦難・危険に対し、ペリーヌさんたちはささやかながらも、対応手段を持っていました。それは、小型馬車を中心とした最低限の衣食住の環境や、旅の写真屋という収入源、そして移動経路の自由選択権などです。そして、各所で心優しき人々の厚意を受けることもできました。むろん、逆の見方をすれば、次第にそれらを失って、追い詰められてゆく過程のお話でもあるのですが…

こうした考察はまた、ストーリー後半のマロクール編にも適用できます。小屋での一人暮らしも、苦労の連続ではありますが、わずかながらも工員としての収入があり、様々な生活上の工夫を試みる余地はありました。また、休日は行動の自由も確保されていました。

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この、小屋での暮らしは、ペリーヌ物語のハイライトのひとつと言えるでしょう。美しい自然の風景描写をバックにした、彼女の暮らしぶりのシーンはとても印象的です。更に、彼女が工員から通訳代理、私設秘書へと花開いてゆくプロセスも、十分な時間をとって描かれているため、それまでの苦難・悲哀のシーンから受けた印象を薄める効果があったと言えます。そしてラストでは、ペリーヌさん自身が亡き両親に対して「私は幸せ」とはっきり口にしています。

<まとめ>

物語終盤でのペリーヌさん感動の場面は、いわば彼女が積極的に行動した結果、もたらされたものです。たとえ孫と名乗れず、私設秘書という立場であったとしても、祖父のそばで「愛されるにはまず愛すること」という母の教えを実践できる機会に恵まれたのは、本当に幸運なことでした。そしてその幸運は、ペリーヌさん自身の優しさや努力が呼び込んだもの、とも言えるでしょう。

いつかは必ず報われると信じた主人公の、幸せに満ちた笑顔と共に終わる長編『ペリーヌ物語』は、苦難のストーリーを明るくまとめた、名作なのです。


そしてまた、涙の中の悲しみが…
小公女というと、まず悲哀に満ちたストーリー、というイメージが浮かびます。これほどまで、そうした捉え方が定着してしまった理由は、どこにあるのでしょうか。

セーラさんは、資産家の令嬢から学院メイドへ、という、極端な境遇の変化に見舞われます。以後、長く続く彼女の苦しみの要因は、人間関係の軋轢、という一点にほぼ集約されます。社会的に底辺層へ転落し、手ひどい扱いを受けた、とも言えるでしょう。学院長・料理人夫婦・一部の生徒からの、執拗かつ陰湿ないじめは、ある意味、救いのない状況を、セーラさんの周囲に作り出しています。

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セーラさんの悲しみは濃く、彼女の心を深くえぐります。その内容を求めてみると、以下の2つに行き当たります。

◆父の死

愛する人との別れ。二度と会うことが叶わないその悲しみは、経験した者にしか分かり得ません。最大にして唯一の保護者・理解者を失ったあと、ひとり残されたセーラさんの悲しみは、折に触れ彼女の記憶に蘇り、時を追うごとに募ってゆくばかりです。

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◆学院関係者の豹変

学院長やラビ二アさん、料理人ジェームス、モーリー夫妻など、当初は味方、或いは少なくとも敵対関係にはなかった人々からの手のひら返し。人間の持つ本質的な一面が牙を剥いて襲いかかり、博愛精神の持ち主セーラさんの心をかき乱します。

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こうした点を踏まえた上で、ペリーヌ物語と同様の視点から考察して見ると、小公女という作品の特性が見えてきます。

『小公女セーラ』が悲しみ募る作品と言われる、1つ目の理由は、

セーラさんは先の展望や目的地を持ち得なかったから

といえるでしょう。これは、彼女自身の問題ではなく、置かれた環境によるところが大きいと思われます。父の死について確かめる術すらなく、学院側に生殺与奪の権利を握られ、いつ終わるともしれないメイド生活に耐えねばならないのですから、それが希望を持てない悲惨な日々であることは明白です。また、ベッキーさんら数少ない味方も、同じく弱者の立場にあり、セーラさんへ実質的な手助けをすることは難しい状況でした。つまり、セーラさんはほぼ、孤立無援であったのです。

彼女を包む闇はどこまでも深く、そこには一筋の光さえ、差し込みません。実際には、学院外ではクリスフォード氏の動きがあったのですが、セーラさん自身は知る由もなく、絶望の二文字に塗り込められた時間が続くことになります。

そして、セーラさんの復活劇は、第43話「幸せの素敵な小包」~第44話「おお この子だ!」のわずか2話分、作中時間でいうと数日間で、一気に纏められています。短期間での劇的な展開は印象的ですが、裏を返すとこの最終盤に至るまで、セーラさん自身は全く希望を持てずに過ごしていたのです。

この作品の悲惨な面ばかりがクローズアップされる2つ目の理由。それは、

セーラさんには一切の選択の余地がなかったから

ということになるでしょう。セーラさんは、寄宿学院という、社会から隔絶された閉鎖空間の中で、無休(無給)で着替えの服一枚さえ無く、自由行動もできなくなりました。しかも屋根裏部屋という劣悪な住環境の下、消耗戦の様な労働を強いられれば、やはり彼女の苦しみが真っ先に目につくのは当然です。しかもそれに、今のセーラさんにとって世界の全てである学院の院長や、元クラスメートからのいじめが加わります。そしてそれらの苦難に対し、セーラさんの取りうる対応策は、ただじっと耐えることだけなのです。

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こうしたシーンが、物語の大半を占める構成でしたので、視聴者にも相応の覚悟を求める作品となったのは、致し方ないことでした。

<まとめ>

そんなセーラ・クルーさんにとって、やがて訪れるクリスフォード氏による大逆転は、全く予想外のサプライズでした。優しさを忘れず、苦しみに耐え続けた彼女の気高さが、最終的に幸運を呼んだといえますが、それはいわば、受け身な形での復活劇でした。

そしてラストシーン。くじけてはだめ、と胸の小さな花を咲かせ続けた彼女は、涙とともにロンドンを後にします。それは果たして、嬉し涙だったのか、それとも…その涙の真意は、セーラさんだけが知っています…

苦境を耐えしのんだ主人公の涙で終わる『小公女セーラ』は、人の世の悲哀を深く描き切った、名作なのです。

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