このページでは、主に『ペリーヌ物語』と『小公女セーラ』を、比較・考察しています。
ペリーヌさんとセーラさん。大きな苦難に立ち向かう、二人の少女。その悲しみの内容を比べてみましょう・・・
長い冬の先には、やがて春の訪れが… しかし、その旅も、母マリさんの客死によって移動手段を失い、単独行となったペリーヌさんも生命の危機を迎えて、最大のピンチに陥ります。ここは別途記述の通り、バロン君たちの活躍で最終的に切り抜けますが、目的地マロクールに到着後も、直ちに祖父との邂逅とはゆかず、薄給の工員として郊外の狩猟小屋での自炊生活となり、やはり苦難は続きます。 このように、彼女に降りかかる苦難・悲しみは実に多岐にわたりますが、なぜか『ペリーヌ物語』には、『小公女セーラ』のようなどこまでも悲惨なお話、という印象はあまり感じられません。一体、それはどうしてなのでしょうか。
ペリーヌさんの悲しみはその旅の途上、常に彼女の傍にあり、ことあるごとに心をえぐりました。その内容を見てみると、彼女の周辺状況の変化によって、以下のような要因が挙げられます。 愛する人との別れ。異郷の空の下、衝撃的な悲しみを、ペリーヌさんはわずか5ヶ月ほどの間に2度経験します。そして欧州大陸公路にひとり残された彼女の心細さは、察するに余りあります。涙が涸れるまで泣き、健気にまた新たな一歩を踏み出すペリーヌさんですが、その悲しみが癒されることは決してないでしょう。
◆パリカールとの別れ ペリーヌさんにとって、ロバのパリカールは長旅を共にしてきた特別な存在です。賢いパリカールも、それを理解しています。家族同様であった彼との別れ。しかも自分たちの生活のため、泣く泣く手放すのですから、心の痛まぬはずがありません。別れを嘆くパリカールの鳴き声は、いつまでもペリーヌさんの耳から離れず、彼女を一層の悲しみの淵へと追いやるのでした。
◆自分に対する祖父の真意 ペリーヌさんが、自分の全存在をかけてたどり着いた祖父の元。しかし、彼の口から語られる、母や自分に対する容赦のない言葉の数々が、彼女の心を引き裂きます。愛する人からの愛を得られぬ悲しみが、ペリーヌさんを締め付けるのでした。
◆工場関係者の悪意 自らの意思に関わりなく、製糸工場をめぐる大人の事情に巻き込まれてゆくペリーヌさん。祖父の失脚を狙う工場長やテオドール氏の露骨な悪意に加え、人を信じず遠ざける祖父の様子までをも知ることになり、彼女の悲しみの色は濃くなってゆくばかりです。
◆真実を告げられぬ悲しみ 孫ではなく、秘書として祖父の信頼を得たペリーヌさん。求める本当の幸せまであと少しですが、それをつかもうとすれば、父エドモン氏の死を告げねばなりません。それが祖父にもたらすであろう悲しみの大きさを思うと、彼女の心は千々に乱れるのでした。
このように、ペリーヌさんを苛む悲しみは、どこまでもついてまわります。にもかかわらず、作品全体に過度の悲壮感が感じられない理由。1つ目は、 ペリーヌさんには明確な目的地が存在したから でしょう。ペリーヌさんは終始、”祖父と幸せに暮らす”という願いを持っており、それを支えに長い旅路を越えて来ました。また、マロクールでのやや危なっかしい一人暮らしも、むしろそれを楽しんでいる様子すら、見受けられました。やはりそれも、彼女が持ち合わせた明るい性格と共に、「遂に祖父に手の届く所まで来ることができた」という思いが根底にあったからでしょう。強い思いは、時として人をよりたくましく成長させる、という好例とも言えるのではないでしょうか。 ペリーヌさんを包み込む闇は深く絡み合っていましたが、そこには常に、一縷の希望もありました。前半長旅編では、マロクールに着くことさえできれば・・・という思いが支えとなり、後半のマロクール編では、苦悩の中でも、祖父の身近で自分を知ってもらう努力をする機会があったのです。これらが、必ずしも彼女の苦しみを完全に和らげたわけではありませんが、少なくとも全くの絶望的状況よりは、いくらかでもましであった、とは言えるでしょう。
『ペリーヌ物語』で悲惨さが前面に出ない2つ目の理由。それは、 ペリーヌさんには選択の余地があったから でしょう。物語前半、長旅における苦難・危険に対し、ペリーヌさんたちはささやかながらも、対応手段を持っていました。それは、小型馬車を中心とした最低限の衣食住の環境や、旅の写真屋という収入源、そして移動経路の自由選択権などです。そして、各所で心優しき人々の厚意を受けることもできました。むろん、逆の見方をすれば、次第にそれらを失って、追い詰められてゆく過程のお話でもあるのですが…
この、小屋での暮らしは、ペリーヌ物語のハイライトのひとつと言えるでしょう。美しい自然の風景描写をバックにした、彼女の暮らしぶりのシーンはとても印象的です。更に、彼女が工員から通訳代理、私設秘書へと花開いてゆくプロセスも、十分な時間をとって描かれているため、それまでの苦難・悲哀のシーンから受けた印象を薄める効果があったと言えます。そしてラストでは、ペリーヌさん自身が亡き両親に対して「私は幸せ」とはっきり口にしています。 <まとめ> 物語終盤でのペリーヌさん感動の場面は、いわば彼女が積極的に行動した結果、もたらされたものです。たとえ孫と名乗れず、私設秘書という立場であったとしても、祖父のそばで「愛されるにはまず愛すること」という母の教えを実践できる機会に恵まれたのは、本当に幸運なことでした。そしてその幸運は、ペリーヌさん自身の優しさや努力が呼び込んだもの、とも言えるでしょう。 |
そしてまた、涙の中の悲しみが…
セーラさんの悲しみは濃く、彼女の心を深くえぐります。その内容を求めてみると、以下の2つに行き当たります。 愛する人との別れ。二度と会うことが叶わないその悲しみは、経験した者にしか分かり得ません。最大にして唯一の保護者・理解者を失ったあと、ひとり残されたセーラさんの悲しみは、折に触れ彼女の記憶に蘇り、時を追うごとに募ってゆくばかりです。
◆学院関係者の豹変 学院長やラビ二アさん、料理人ジェームス、モーリー夫妻など、当初は味方、或いは少なくとも敵対関係にはなかった人々からの手のひら返し。人間の持つ本質的な一面が牙を剥いて襲いかかり、博愛精神の持ち主セーラさんの心をかき乱します。
こうした点を踏まえた上で、ペリーヌ物語と同様の視点から考察して見ると、小公女という作品の特性が見えてきます。
『小公女セーラ』が悲しみ募る作品と言われる、1つ目の理由は、 セーラさんは先の展望や目的地を持ち得なかったから といえるでしょう。これは、彼女自身の問題ではなく、置かれた環境によるところが大きいと思われます。父の死について確かめる術すらなく、学院側に生殺与奪の権利を握られ、いつ終わるともしれないメイド生活に耐えねばならないのですから、それが希望を持てない悲惨な日々であることは明白です。また、ベッキーさんら数少ない味方も、同じく弱者の立場にあり、セーラさんへ実質的な手助けをすることは難しい状況でした。つまり、セーラさんはほぼ、孤立無援であったのです。
この作品の悲惨な面ばかりがクローズアップされる2つ目の理由。それは、 セーラさんには一切の選択の余地がなかったから ということになるでしょう。セーラさんは、寄宿学院という、社会から隔絶された閉鎖空間の中で、無休(無給)で着替えの服一枚さえ無く、自由行動もできなくなりました。しかも屋根裏部屋という劣悪な住環境の下、消耗戦の様な労働を強いられれば、やはり彼女の苦しみが真っ先に目につくのは当然です。しかもそれに、今のセーラさんにとって世界の全てである学院の院長や、元クラスメートからのいじめが加わります。そしてそれらの苦難に対し、セーラさんの取りうる対応策は、ただじっと耐えることだけなのです。
こうしたシーンが、物語の大半を占める構成でしたので、視聴者にも相応の覚悟を求める作品となったのは、致し方ないことでした。 <まとめ> そんなセーラ・クルーさんにとって、やがて訪れるクリスフォード氏による大逆転は、全く予想外のサプライズでした。優しさを忘れず、苦しみに耐え続けた彼女の気高さが、最終的に幸運を呼んだといえますが、それはいわば、受け身な形での復活劇でした。 |
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